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【急告】神田共立講堂!チケット情報

この公演は、吉田拓郎がパーソナリティを務めるニッポン放送のラジオ番組「吉田拓郎 ラジオでナイト」(毎週日曜日23:30-24:00放送中)の番組イベントとして開催される。 吉田拓郎が約40数年振りに神田共立講堂のステージに立つ! 2019.2.28 2019.3.21 2019.3.8 この3月、ニッポン放送の『吉田拓郎 ラジオでナイト』が終了した。2年間毎週放送されていたが、自分は熱心なリスナーではなかった。老躯にムチ打つような、痛々しささえ感じた。とくに歌の創作由来は、貴重だった。これで一気に虜になった。2年前のデビュー作までさかのぼり、新作もリリースされるたび、即座に買い続けた。でも熱心に聴いていたのは、77年の『大いなる』まであたりか。 その後は気持ちが、徐々にフェードアウトしていった。78年の『ローリング30』が、とくによくなかった。拓郎に、松本隆の詞は似合わない。やっぱり岡本おさみや、春だったねの田口淑子、せんこう花火の古屋信子でないと。これはとてつもなくクラいアルバムだった。これでファン歴に終止符を打ってしまった。90年代になってレンタルCDで、後発のアルバムをごっそり借りたことがあったが、心に響く歌はほとんどなかった。そもそも、音楽への興味が失せていた。仕事や家族のことなどで、それどころじゃなかった。彼は70年代、フォーク歌手とされていたのだが、そのころのファンは嫌いらしい。あろうことか自分は、当のご本人に罵られてしまったことになる。そもそもが古いマイナーな歌ばっかりだ。(ブログの引用欄を使用した。読み飛ばしてください)ときあたかも、彼の最後となるかもしれないコンサートがはじまる。ご笑読願えれば、ありがたい。          僕がニッポン放送に顔を出すようになったのは、1970年代の初期の頃でした。『バイタリス・フォークビレッジ』という番組があって、四代目のパーソナリティとして呼ばれたんです。担当のディレクターがシマダさんという人で、僕のコンサートを観に来てくれて、「ぶっきらぼうな奴だが、次に売れるのは拓郎だ」と起用してくれた。会社の営業や編成からは、もっと名前のある奴はいないのかと反対されていた。僕も初めてのことで、最初のうちは舞い上がってしまって、なんのことかわからんうちに放送は終了していた。しかしすぐに人気が出た。ただ当時は、あのエレック・レコードにいたのだが、でたらめな会社で、不都合なことがいっぱいあった。忘れられないのが、マネージャーが番組収録の日を忘れていたりとか、いろんな事件があった。そのころから月日が流れて、いまや僕は71歳。あのときは22、3歳かな。50年も経って、またマイクの前に戻ってきて、ラジオをやっている。 この番組のテーマソングを聴くと、あの当時の空気感が一気に広がる。。Youtubeにアップしてくれた方に感謝します。         バイタリス・フォークビレッジで脚本を書いていた人が、岡本おさみさんだった。シマダさんは、岡本おさみさんを評して一言、「クラい男だったね」(笑)。たしかに岡本おさみさんと食事してて、こんなにつまんない人はいなかった。岡本おさみと松本隆ぐらい、食事をしてつまんないの、いないですよ。全然喋ってくんないですから。 かつて拓郎は岡本おさみについて、「顔を見ると虫唾が走る」と語ったことがある。詞の受け渡しですら、直接会わずに済ませていたという。そこまで嫌っておきながら、彼の言葉を歌い続けてきたのは、とても不思議なことである。この語録でも後述するが、その詞はメロディに乗せにくく、歌にすることは至難の業だったらしい。ならなおさらのことなのに、岡本おさみの詞には、それを上回る魅力があったということなのだろう。        リスナーからの質問が来ています。「なぜ今度のラジオには、坂崎さんはいないのですか」。坂崎君とは4年ほど、オールナイト・ニッポン・ゴールドをやったのですが、さすがに飽きましたね。そしてもうひとつの理由は、彼があまりに忙しく、その合間にスタジオにやってくる、あの態度をだんだん許せなくなった。僕は当時、自分のコンサートと、あの番組に賭けていたんです。一心不乱にあの番組に取り組んでいた。なのに坂崎にとっては、いろんな仕事のひとつに過ぎなかった。大人気ないのですが、もう坂崎とはやりたくないのです。この番組の打ち合わせでは、もう坂崎は呼ばないでくれと頼んだ、ということです。        1978年に発売された、『ローリング30』。このアルバムは、南箱根ダイヤランドホテルに僕と松本隆くんが宿泊し、1週間位で20曲弱、アルバム2枚分を仕上げたという、驚異的なレコーディングだった。歌ができあがると、近くのスタジオに集合させているバンドに渡し、すぐレコーディングという作業をくりかえしやった。まず松本くんがホテルの部屋で詞を書いて、拓郎出来たよって、持ってくる。僕はその場でパパッと5~6分で曲を付けていったのだ。このことを松本隆くんは後日、ニッポン放送の番組で、「僕が一昼夜かけて苦心してつくった詞を、拓郎は5~6分で、ハイできたって完成させた。もうちょっと時間かけたっていいんじゃない?、と本気で思った」と話していた。でもそういう瞬間っていうのが、作家にはあるんですね。俗にいう、曲が降りてくるって言う感じがあって、ギターを持った瞬間にできてしまう時期が、人生のなかにはあったんです。 「曲が降りてきた」と本人は言うけれど、そうとは全然思えない。『ローリング30』は、拓郎らしくない歌ばかりだ。あとでこの制作過程を知り、なるほどと思ったものだ。松本隆の、「もうちょっと時間を・・・」という言葉も、出来がよくないと言いたかったはずだ。        演歌には、若いときは馴染みがなかった。最近は歳のせいか、演歌でもいいものはいいと思うようになった。むかし広島でロックバンドやってたころ、ジャズ喫茶があって、この店の主人が、都はるみさんの大ファンで、その等身大の大きな写真を、そのステージの横に貼っていた。俺たちは、その横でロックを歌うのは変だと、店主に問いつめたことがあった。すると「なに言ってんだ。おまえたちの音楽は、都はるみに比べたら、屁みたいなもんだ」と言われた。そのころ都はるみさんは16歳くらいだったが、その歌のうまさを、いま2017年の吉田拓郎は再認識するようになった。僕は夜寝るときに、iPodに好きな曲をいっぱい入れて、10曲ほどのひとつのフォルダで寝つくことにしている。そのひとつのフォルダが「歌謡曲」で、都はるみさんや前川清さんの曲が入っている。最近はこれを心地よく聴いている。以前は自分の曲とか、あるいは50年代、60年代のアメリカンポップスが一番よかったが、最近はこの歌謡曲のフォルダでよく眠れる。都はるみさんのデビュー曲『あんこ椿は恋の花』がいい。16歳の少女の、この歌い方、拳のまわし方、そしてこの唸るときのタイミングの良さ。その軽快さ。天才です、都はるみさんは。       「ついていけないもの、それは吉田拓郎さん、あなたです。フォークビレッジで、フォークの世界に引きずり込んでおいて、俺はフォークじゃないと言い放つ。その後もロックだ、レゲエだ、ビッグ・バンドだとファンを翻弄し、自分の曲しか聴かないと言っていたあなたが、今は毎晩演歌を聴いているという。つま恋だ、篠島だと、はるか奥地に人を呼んでおいて、今度は関東近辺でしか演らないという。たしかあなたは、ファンクラブでネットをいち早く導入した。パソコンを持っていなかった私は、ついていけないと嘆いた。なのに今のあなたは、ラジコとかニコニコとかがわからないと言う。そしてアナログの良さを見直そうと言う。ラジオはラジオで聴こうと、のたまわる。ニッポン放送を聴くため、ラジコでプレミアムに入会したわたしはどうなる。まったくあなたという人は、なんて人なんだ!」。 おっしゃる通りで、わたくし、その場その場で言うことがコロコロ変わっている気がします。今後もお気を付けください。 この方の投書は絶品です。拓郎サンの勝手気ままな変節ぶりを、みごとに表現している。そしてこれを悪びれもせずに取り上げて、大笑いしながら読み上げている当のご本人。これぞ吉田拓郎という人なのです。       運転免許は、高校卒業してすぐに取ったんですが、貧しかったのでクルマを買ってもらえませんでした。東京に出てからは、およそ16種類の車に乗ってきました。最初のクルマは、コマーシャルで頂いたクルマで、スバルレックスです。それから、当時かまやつひろしさんらが乗っていた、ミニクーパーを欲しいと思ったんですが、まだ買えない。それで国産でいいクルマはないかと思っていたら、ホンダがシビックを出した。これをすごく気に入り、いまもう一度乗ってみたいクルマはと訊かれても、シビックを挙げたい。それが二台目で、ここまでは国産。三台目からは、印税などが入ってきたので外車にした。ある中古車屋さんに行って、たまたま展示されていた、ジャガーエックスXJ6に目を付けたんです。水色で、かっこよかったんです。買うときに俺、「これちょうだい」って言ったんです。こんな買い方すごいなと、いまでも思います。それから次はカジュアルに、フォードムスタングに乗りまして、アウディ50に乗って、BMW320iには2台乗った。BMW1台目は普通の2ドアで、2台目は幌張りのオープンカーだった。僕の事務所の社長だった奴と2人でそのオープンに乗って、四国までコンサートに行ったことがあります。そのあとはベンツの450SL。新車ではとても手が出なかったので、中古のグリーン色の二人乗りだった。次も同じ450SLの真っ白なヤツで、その次はポルシェに乗んなきゃという気分になって、924にした。これをいたく気に入ってね。高速道路をポルシェで走りたいと、911を買わずに924をなぜか買った。かわいいデザインだったね。ちょうど逗子に引っ越した時期で、テレビの『ラブラブ愛してる』をやってたので、週に一回は、このクルマで東京と逗子を行ったり来たりしていました。このクルマで聴く曲はハワイアンでした。ポルシェとは思えないくらい、すごくノンビリ走っていた。横浜横須賀道路では僕の横を、大型トラックが追い抜いてゆく。大型トラックがポルシェより速かった。運転していたのは、僕だったんです。それから国産の、スズキ・ジムニーに乗ったんです。これは、キンキ・キッズの堂本光一君がクルマにくわしく、「ジープみたいなのに乗りたいけど、なんかいいのはないか?」と訊いたら、いちばんかわいいのは、ジムニーだというので乗った。かわいいクルマですが、僕はいったい何を考えていたのでしょう。でもこれは短かった。半年もなかった。乗ってるうちに、狭いということに気がついたから。このころはつま恋で、コンサートのリハーサルをやっていたので、二時間の運転は、ジムニーではつらかった。それからジープ・ラングラーという、アメ車に乗った。この時期はジープに凝ってたんですね。しかしこれも短かった。なぜなら、ブルーに塗り替えたところ、タバコの『ハイライト』と同じ色になっちゃって、恥ずかしくて。それから光一に相談したら、「拓郎はん、あきまへんがな。ベンツのジープに乗んなはれ」って言われて、同じジープでも、すごい高級なゲレンデヴァーゲンGLAを買って、一番長く、4~5年乗った。乗り心地がよかった。そしてそのあと、急にコンパクト車という気分になって、アウディA1に乗ったが、オレ運転下手だから、坂道発進でちょっと下がってしまうクルマだった。それで半年で換えて、次がBMWの116i。なぜこのクルマなのか、理由はわからない。これも短い運命でした。そしていまは・・・、これは言えません。でもあえて言うと、「ワ~、拓郎、カワイイ!」っていうのに、乗ってます。        ホンダ・シビックに乗ったとき、最初に乗せた女は、ユーミンでした。夜中でしたね。当時TBSのパック・イン・ミュージックにユーミンと、後に井上陽水夫人となる、石川セリさんのふたりが出ていたんですね。それを井上陽水と六本木で聴いていて、「俺ね、石川セリって好きなんだよね」って言うから、「俺、ユーミンと仲いいから、TBS行ってみようか」って生放送の現場に行って、それから陽水は、石川セリさんとのおつきあいが始まった。このあとユーミンを家まで送っていったのが、シビックだったと思います。もし間違ってたら、ユーミンが怒鳴り込んでくるかもしれませんが。 ファンならご存じのように、アルバム『明日に向かって走れ』には、『僕の車』が収録されている。むろん愛車シビックを歌ったもの。しかしこのころ拓郎は、すでに高額所得者になっていたはず。高い外車を乗り回していてもおかしくないのにと、当時この歌を聴きながら思ったものだ。しかし愛車遍歴の話にあったように、拓郎はシビックが一番好きだったと言う。これには驚いた。じつはこの初代シビックを、当時自分の友だちも持っていて、助手席に何回も乗ったことがある。あのころのホンダは四輪に進出して間もない、経験の浅い武骨なメーカーだった。このためシビックは、路面のゴツゴツを拾いまくるクルマだった。サスペンションもへったくれもないくらい、おしりがボンボン浮き上がり、とても痛かったことを覚えている。そんな不完全なクルマだったのだが、数々の華麗なる外車遍歴を経たあとも、いまだシビックを愛しているという、拓郎サンの思い入れがなぜかうれしい。     71年、エレックレコードの時代に、CMソングの話が来ました。シンガーソングライターではなく、歌手としての仕事でした。作詞は山川啓介さんで、作曲は渋谷毅さんですが、なぜ吉田拓郎が歌うことにになったのかは、わかりません。誰か代理店の方とかが選んでくれたんでしょう。エレックにはそんな力はなかったですから。テクニクスという、松下電器産業、いまのパナソニックのステレオのCMで、「明日になると、明日は来るのか、そいつは、だれにもわからない~」という、この部分までのメロディはあった。しかしこの先になると、なぜかメロディはなかったんです。渋谷さんに「吉田君、適当に歌いたまえ」と言われ、アドリブでメロディをつくって歌った。 いい歌だ。大好きです。       フジカラーのCMソングです。この話があったとき、スポンサーや代理店から、「Have a nice day」という言葉を使ってくれ、との条件がありました。いまも好きなのですが、当時はアメリカン・ポップスの「イェイェイ」とか「ウォゥオゥ」というフレーズが好きだったので、そういった曲をヒントにして、メロディとコーラスを考えた。歌詞は、「拙者」とか「おぬし」とかのサムライ言葉を、よく冗談で話していたので、これを使った。当時のぼくは、ソロでコンサートをやる力はまだなく、いわゆるフォーク集会のコンサートツアーで、加川良や高田渡、かぐや姫らと一緒に出るひとりだったんです。これらのコンサートに、『猫』というグループと組んで、一緒に回っていました。その日は、猫と旅先から上野駅に着いて、某レコーディング・スタジオに入りました。猫は演奏がヘタだったし、ドラムがいなかったので、僕がボンゴをたたいた。エレキ・ギターは二種類を僕が、ダビングして弾いた。まだレコーディング技術が稚拙な時代で、エレキの音が大きすぎるため、アンプに毛布を三重、四重にかけて、マイクを中に入れて録音した。でも結果としてこのCMは、手前味噌ですが、斬新で大ヒットした。そして味をしめた代理店が、第二弾を「吉田君、次もやってくれないか」と依頼してきた。僕は「今度は好きなように作らせろ」と、強気になった。曲調はクラシックな感じのがいいと、瀬尾一三にアレンジを頼んだ。そして広島弁を詞に使った。このころは忙しかったけれど、いいアイデアが、いっぱい湧き出てきていた。  言っちゃなんだが、この歌はアホっぽい。でもそれがよかった。拓郎は陽気さと繊細さが同居しているから魅かれていたのかもしれない。何回も言うけれど、Youtubeにアップしてくれた方、ありがとうです。      メールの紹介。「わたしの父は、拓郎さんのファンで、拓郎さん以外の曲を聴いているのを見たことがありません。そんな父がよく観ていた映像の中で、『窓を開けて~馬鹿野郎!と叫んだよ』と歌っていたのを覚えているのですが、あれは何の曲ですか」。あれは『雨』という曲なんです・・・(と、『雨』を歌う) この『雨』は、『たくろう オン・ステージ 第二集』におさめられている。拓郎が拒否したのに、エレックが発売を強行したという、いわく因縁つきのアルバムだ。でもこれが世に出たからこそ、あの『準ちゃんが吉田拓郎に与えた偉大なる影響』を、ファンは知ることができた。ほかにも、『静』 『来てみた』 『ゆうべの夢』などなど、素晴らしい曲がずらりと並んでいるライブ盤だ。ラジオでナイトでも拓郎サンは、ひどい会社だったと、いまだエレックを非難し続けていたが、投書とはいえ『雨』を紹介するぐらいだ。怨念もすこしは薄れているのだろうか。まがりなりにもレコードを出し、デビューさせてくれた会社だ。功罪相半ばということで、もう許してあげてもいいんじゃないでしょうか。自分はそう勝手に思うのですが‥ なお下の歌のリンクでは、「馬鹿野郎!」の部分にお気を付けください。とてつもない大声です。ホント、ビックリします。       僕のコンサートで、たぶんみんな聴き逃してるだろうなと思うんですが、客入れと客出しのとき、うしろに音楽を流しているんですよ。だいたい僕は客入れのときには、ビリー・ヴォーン・オーケストラの、『星に願い』をかけている。そして最後のアンコール曲『人生を語らず』が終わって、何度も何度も長いお辞儀をしながら吉田拓郎が消えて、ステージからバンドのメンバーも去って電気が落ちたとき、客席に流れ始める音楽が、パーシー・フェイス・オーケストラの『夏の日の恋」です。なんでこの曲なのかというのは、好きでしょうがないから。この曲に青春がある。だから最後はこの曲で締めくくりたい。『夏の日の恋』は、全米でも9週連続の第一位になった大ヒット曲ですが、アメリカの上流階級と、青春の恋を描いた映画『避暑地の出来事』の主題歌だった。コンサートが終わった後も、みんな座ったまま聴いていてくれれば、コンサートの内容がじーっと残るものになるんだけれど、みんなさっさと帰るのがどうにも味気ない。俺のコンサートの唯一の不満は、客が帰るのが早いのなんの。あっという間になくなる。あんだけ盛り上がって、『人生を語らず』で、わーっとなってるのに、この曲がかかりはじめると、もうほんとにパーッといなくなっちゃう。もうちょっと余韻を、この曲を聴きながら余韻に浸れよ。でも一方で、パーシーフェイスがかかると、「もう帰ろうかな」って僕も思う。連鎖反応というか、僕の体もそうなってる。だからこれを聴くと、みんな帰っていっちゃうのも、わからなくもない。いつまでも座ってられるのも困るから、やっぱり帰っていいよ。    (分と秒は当該歌詞部分)  拓郎サンの名誉のために付言すれば、「水面」を「みなも」と、正しく歌っている歌がある。75年のシングル『となりの町のお嬢さん』のB面曲『流れる』だ。アルバムには入っていないせいか、ほとんど知られていない歌だ。おけい(四角佳子)との離婚の時期にリリースされ、深夜放送で離婚の発表をした際にもオンエアされたという。歌詞はその傷心を語っているようで切ない。しかしそのような背景とは関係なく、純粋な楽曲として、これも拓郎が生んだ傑作のひとつだと自分は思う。 拓郎の書く詞の意味が不明なことについては、自分も言いたい。『イメージの詩』もわかったようでよくわからない。『知識』ももっともらしいが、意味がわからない部分がある。彼の書く本もしかり。作家の柴門ふみは、拓郎の熱烈なファンである。そして彼女も拓郎のエッセイ集『自分の事は棚に上げて』文庫本の解説で、こう綴っている。「ひとつの文章なのに言ってることが途中でコロコロ変わる」と。でも彼女もそのあと「拓郎サンはそれでこそ拓郎サンなのだ」と (水面は2分24秒あたり)       松任谷正隆はザ・バンドを好きで、僕はボブ・ディランを敬愛していた。曲のアレンジも、ザ・バンドとボブ・ディランのようにやりたいと、ふたりで話していた。74年か73年、ザ・バンドをバックに、吉田拓郎が日本ツアーをやろうという話があった。事務所の社長がロサンゼルスだったかアメリカに飛んで、ザ・バンドと交渉した。俺はそのとき東京で、夜中の2時か3時、最終決定の電話を待っていた。しかし無情にも「ぽしゃっちゃたよ」と告げられてしまう。ボブ・ディランが、次のツアーをザ・バンドとやりたいと言い出したのだ。泣きましたよ。        この曲は自分でも大好きで、自分への応援歌だと思っている。ある時期、僕は心の病であるうつ病にかかってしまい、物事を前向きに考えられなくなった。これではいけないと、たとえばサッカーなどのスポーツ観戦や、魚釣りなどアウトドアにトライしようかと考えた。これをかかりつけの医者に相談したら、「それらを君は好きなのか。本当に好きなことをしなさい」とアドバイスされた。魚釣りがしたいのならやればいいが、好きでもないことなら無理にやってはいけないらしい。それから僕は、もっとも得意とする、「家でごろごろ」をすることにした。何かをしないことを悪いことと思わないようにした。それが自分にとっていいことならいいんじゃないかと、気持ちを切り替えた。そこから僕は元気になっていった。今はそのお医者さんは亡くなって、息子さんのお世話になっている。うちの奥さんも、僕と同じような心の病にかかり、塞いでしまったことがある。このときも先代のお医者さんから、当時住んでいた逗子から、よそに引っ越さないかと言われた。わざわざ一軒家を建て、家内のお母さんも一緒に7年も逗子に住んでいた。生涯ここで暮らそうと思っていた。だからまさか、医者から転居を勧められるとは思わなかった。お医者さんは「賭けだけど、僕は治ると思う」と言う。この選択は僕にとってとても厳しい決断だったが、医者を信じることにした。そして家内は治った。がんばらなくてもいいときが、人生にはある。そういう意味でこの歌を作った。 アルバム『午前中に・・・』

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2019.2.22 2019.7.12 わたしとラジオでナイト 構成作家Kくんの場合